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「なんてったってイタリアよね」の巻

 イタリアはさすが太陽の国、気候は温暖でローマで暮らした6年の間、一度も雪は降らなかった。

 ローマっ子はあまりスキーをしない。他に誘惑がありすぎて、スキーにまで手が回らないからである。かく言う私もまったく、スキーをやったことがなかった。

 イタリアではローマに住んだので、まわりにスキーをする人間が見あたらなかった。初めてスキーをするチャンスが巡ってきたのは、ローマ滞在6年目、日本へ帰国する1980年1月、34歳の冬だった。

 私も、遅ればせながらスキーが趣味と公言するようになり、雪の便りを待ち望む人々の気持ちを理解するようになった。

 それどころか、今ではすっかり頭がスキーと化し、国内はもとより、毎年必ず2回はイタリアへスキーに出かけてしまう。

 そんなわけで、この連載ではイタリアスキーの魅力を読者にお伝えしたい。同時に、一度でも行けば人生観がコロリと変わり呪縛のごとく人を捉えて放さない何かがある、そのあたりの秘密を解き明かしてみたいのである。

 イタリアでスキーを始めるチャンスを与えてくれたのは、何と言っても、アリタリア航空である。ここで先ず、そのイタリア行きの経緯に少しだけ触れてみよう。


 私が入社した1969年当時、アリタリア航空は、日伊間を南回りで週3便、DC-8で運行していた。機体も小さく、座席配置は真ん中の通路を挟んで、エコノミークラスが左右に3席づつで128席、機内前方にファーストクラス12席のみのかわいいものだった。

 南回り便は東京を出発すると、最初に先ず香港かマニラを目指し、次にバンコックへ降りその後ニューデリー、ボンベイ、カラチのいずれかに立ち寄り、最後にテヘランかアテネを経由してようやくローマに到着する。

 所要時間は、なんと24時間と現在の倍、丸一日がかり。ルートによっては24時間を超えるフライトもあった。往復するだけでまる二日、のんびりした時代だった。

 1960年代後半の世界の航空業界は、ジャンボジェットの導入期であり、アリタリアも創立以来のロゴを一新、同時に、最初のB747を北米線に投入した。いわゆるCIの走りである。お馴染みの尾翼のロゴマークはこのとき以来変わっていない。

 大型航空機の登場。B747とDC-10が、航空業界に大量輸送時代をもたらし、実際に世界の空を飛び始めた70年代は海外旅行大衆化の幕開けとなった。

 東京ーローマ線へのジャンボ機導入は、DC-8、DC-10の運行の時期が続き、70年代後半になる。いずれにしてもこの頃から日本人の海外旅行熱は徐々に盛んになり、団体旅行、パック旅行が隆盛を誇る時代が近づきつつあった。

 今振り返れば、1974年7月にローマ駐在員として赴任することになったのも、こうした時の流れがあったからである。


 二年ぐらいのつもりで行った、ローマは、見るもの聞くもの珍しく、住めば都、生活もしやすい。で、結局1980年7月に帰国するまでの六年間を過ごすことになった。

 渡伊した時、長男が二才、次男は生後三ヶ月、子育てには海の近くがいいだろうと、海辺の街、オスティアに住むことにした。

 オスティアの街はローマ市に属し、市の中心から、南東へ約30Kmの海岸に、南北に長い。人口が当時で、約10万人であった。

 オスティアの語源はラテン語のオスティウム「河口」
から来ていると言われる。 ローマを流れるテヴェレ川が海に注ぐ、河口の左岸に形成された街である。

 河口右岸にはローマ、レオナルドダヴィンチ空港のある、フィウミチーノの街がある。ローマ空港のスリーレターコードがFCOとなっているのはFiumicnoを略したからである。

 ローマ時代の古から、オスティアはローマの港として栄えたが、海岸線の後退により現在港はない。 当時の様子は、旧オスティア市街OSTIA ANTICAに残る遺跡で、伺い知ることができる。この遺跡はポムペイにも匹敵する大規模なもの。4つ星で一見の価値あり。

 オスティア海岸はLIDO DI ROMAとか、 LIDO DI OSTIA とも呼ばれる。リドは砂州、とか砂浜の意、つまりローマの海岸、オスティアの浜辺を意味する。LIDO DI VENEZIAと言えばヴェネツィアの海浜の意味で、あのヴェネツィアのリド島の海浜のことである。

 イタリアでリド・ディ・○○と聞いたら、大体、夏の間海水浴客で賑わう街と思えば間違いない。 オスティアにも、夏の間だけ、貸しているアパートが沢山あり、リストランテやバンガロー、シャワー施設が立ち並ぶ海岸は、夏の間中海水浴、日光浴、子供を連れて海で過ごす老若男女で溢れ返るのである。

 何と言っても、車で飛ばせば30分もかからない気軽さから、ローマッ子たちが、美味しい魚料理を食べようと車を連ねてやってくるリゾートである。

 あなたもローマへ行くことがあって、魚介料理の美味しいのを食べようと思ったら、町中はやめて、フィウミチーノかオスティアへ行くのが正解です。


 さて、ローマでの仕事であるが、最初の二年は本社の予約センターで、日本人団体予約の座席確保が主であった。東京とローマがコンピューターでオンラインとなった76年からは、フィウミチーノ空港で日本人旅客の世話をする仕事に変わった。

 78年の夏のそんなある日のことだった。東京行きの搭乗ゲートで、不思議な一団を見かけた。観光客にしては若すぎる高校生ぐらいの少年少女、どう見ても中学生にしか見えない子供も混じる。   今では、珍しくないが、当時は未だ子供が海外旅行するのは珍しい。イタリアに来るのは、更に珍しい。

全員がなんだか真っ黒な顔した青少年を率いる男は岡戸正人と名乗り、差し出された名刺には
「カベール・アドバイザー」と書いてあったが、いったいなんの職業かは見当もつかなかった。

 真っ黒顔で、一見怪しい風貌に似ず、話してみるとなかなか気さくな男で、「私の職業は言ってみればプロスキーヤーですワ。この子達と、マルモラーダへスキーキャンプに行った帰りなんですワ」と言う。

 「プロスキーヤー」と名乗る人間に出会ったのは初めて、スキーキャンプなんてのも聞いたことがなかったので、すっかり感激してしまった。
「夏なのにスキーができるんですか」
 今思えば間抜けな質問をすると、
「イタリアには、氷河のスキー場が、マルモラーダトナーレにあって、日本では今の時期練習できるスキー場があまりないので、来たわけなんですワ」との答えが返ってきた。
 
考えて見れば、これがイタリアスキーに巻き込まれる最初のきっかけである。その後、19年の付き合いがこのときに始まったのである。

 だが、そのことを当時は知る由もなかった。その付き合いが一生のものになるだろうなんてことは、考えても見なかったのである。




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