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「モデナ、ガッレリア・フェッラーリ=フェラーリ博物館」の巻、 その一
フェラーリ博物館。正面ゲート。マラネッロ、モデナ、イタリア
フェラーリ博物館正面ゲート。奥がガッレリア・フェッラーリの入り口となっている。イタリア、モデナ2010年9月16日

モデナのマラネッロにあるガッレリア・フェッラーリ。日本ではフェラーリとかフェラーリ博物館と呼ばれているが、イタリア語の発音ではフェッラーリ、ガッレリア・フェッラーリだから、フェッラーリ博物館のほうが近い。そのガッレリア・フェッラーリの一部が博物館になっていて一般に公開されている。

ガッレリア・フェッラーリの赤門をくぐり奥の建物に入ると、正面にフェッラーリショップ、入り口左脇にインフォメーション、その左に入場券を買うカウンターがある。入場料はひとり13ユーロだった。


フェラーリ125 S跳ね馬ロゴを付けた最初のフェッラーリ
フェラーリ125 S跳ね馬ロゴを付けた最初のフェッラーリ

フェラーリ博物館に入ると直ぐ展示されているのは、このマラネッロにあるフェッラーリのファクトリーで、1947年に最初に生産されたフェラーリ125 Sである。

ジョアッキーノ・コロンボが競技用のクルマとして設計した125Sは、12気筒エンジンを積み、跳ね馬のロゴをを付けた最初のフェラーリとなった。

排気量1500CCと小粒ながら6800回転で118馬力をたたき出すこのエンジンは、当時としては人々を驚かせる画期的な性能であった。

今は何馬力という言い方はせず、87KWと表示するそうだが、118馬力とした方が当時の感じが伝わってくるような気がする。

ピアチェンツァのサーキットで初戦デビュー。フランコ・コルテーゼが乗って出走したが成績は振るわなかった。しかしコルテーゼは、2週間後ローマ・グランプリで見事雪辱を果たし初勝利。続くヴィジェヴァーノ、ヴァレーゼ、そしてフォルリのサーキットと三戦連続の勝利を収め125Sの名を世に知らしめた。

1947年に試作車として3台が生産された125Sは既にこの世に現存しない。展示されているのはレプリカ(復元モデル)である。創業40周年の際、資料室に保管されていたオリジナルの設計図を元に正確に復元されたものである。今でも様々なイベントや記念式典には現役で活躍しているという。


166 F2エンツォ・フェッラーリが1948年に組み立てたフォーミュラ2マシン
166 F2エンツォ・フェッラーリが1948年に組み立てたフォーミュラ2マシン

1948年エンツォ・フェラーリは当時166スポーツタイプに搭載されていたエンジンを載せて166 F2を組み上げた。この年国際自動車連盟が起ち上げたフォーミュラ2に参戦するためである。

自然吸気で2000CC以下という条件をクリアーしたエンジンをしつらえ、166 F2は1948年9月26日、フィレンツェグランプリにレイモンド・ソマースが乗ってデビュー。ただちに初戦で勝利を収め、1950年のフォーミュラ1開始まで連続する勝利への狼煙を上げたのだった。

166シリーズには色々なバージョンがあって、1948年に開催された数々のレースに参戦していたが、F2タイプはサンレモグランプリに向けて特別に用意されたという。後部にセッティングされたエンジンは縦置きV型12気筒、総排気量は1995CCとなっている。


フェッラーリ500 F2はフォーミュラ2タイプ。
フェッラーリ500 F2はフォーミュラ2タイプ。

500 F2はフォーミュラ1タイプ・625 F1をダウンサイジングしたモデル。フェッラーリが1952年F2世界選手権に向け満を持して送り出したマシンだ。エンジンは自然吸気の直列四気筒、排気量1962CC。最高7500回転、185馬力(136KW)。

500F2は1952年、続いて53年にもフェッラーリに世界チャンピオンの栄冠をもたらした。500F2を 覇者に押し上げたドライバーはあのピエーロ・タルッフィであった。ピエーロ・タルッフィは1954年、シチリア島レース、1957年のミッレミリア等あまたのレースで優勝している。日本でも船橋や伊豆半島のレースに出場したと記録されている。


フェッラーリ246F1:1958年の世界選手権で優勝した名車。フェッラーリ博物館。
フェッラーリ246F1:1958年の世界選手権で優勝した名車。フェッラーリ博物館。マラネッロ、モデナ

英国人ドライバー、マイク・ホートンがコックピットに入った246F1は1958年の世界選手権に勝利した。

57年の10月にモデナサーキットでピーター・コリンズが試乗したヴィットリオ・ジャーノ設計のV6エンジン。創業者エンツォフェラーリの息子アルフレド→アルフレディーノ→ディーノから名付けられたフェッラーリ・ディーノに搭載されていたV6エンジン。早世したアルフレドがV8気筒とV4の中間V6の設計者であったメモリアルでもある。

246 F1を駆ってマイク・ホートンは世界選手権とフランス・グランプリで優勝。ピーター・コリンズは57年シーズン英国グランプリで華々しい勝者となった。

エンジンは後部に縦置き配置。自然吸気65度傾斜のV6六気筒で排気量2417CC。最高8500回転、280馬(206KW)となっている。


フェラーリF1モデル。F1-87。フェラーリ博物館。イタリアエミリア・ロマーニャ、モデナ、マラネッロ

F1-87
1987年。フェラーリの工房では、その年変更になった新たなルールをクリアするため、3500CCのエンジンを開発中だった。そんなさ中ゲルハルト・ベルガーがフェフェラーリと専属ドライバー契約を結んだ。

F1-87に搭載されたこのエンジンは、バンク角90度のV6六気筒でモノブロック(単体)鋳鉄製という特徴を備えていた。テストでいきなり単座のフェラーリF1-87は1000馬力にも達する、とてつもないパワーを爆発させてみせたのだった。

ゲルハルト・ベルガーはこのエンジンに、新しい設計の6速ギアとサスペンションに仕様変更したF1-87を操って、最終戦直前の日本グランプリ、最終戦オーストラリアグランプリと連続首位の成績で1987年を終えた。


フェラ-リ048のエンジン。10気筒、40バルブ・排気量2997CC
フェラーリ博物館にはエンジンがいくつも展示されている

フェラーリ博物館にはエンジンも展示されている。
左は1999年のF1世界選手権で優勝したフェラ-リ048のエンジン。10気筒、40バルブ・排気量2997CC、出力はなんと750馬力。

右は同じく2000年の世界選手権の覇者となったフェラ-リ049のエンジン。10気筒、40バルブ・排気量2997CC、出力は770馬力もある。

フェラーリF1モデル。F1-90。フェッラーリ博物館。イタリアエミリア・ロマーニャ、モデナ、マラネッロ、

1990年に生産されたF1-90は当初開発コード名641で呼ばれていたが、後にシンプルにF1-90となった。年号で呼んだ方が分かりやすいのと、前年までのモデル640もF1-89と改称されたので継続性を重視したからでもある。

この年フェラーリと専属契約を結んだのはマクラーレンから移籍したフランス人ドライバー、アラン・プロスト。F1-90を駆っての初戦では戦果を上げられなかったが、第二戦ブラジルグランプリで首位の座を占め、メキシコGP、フランスGP、イギリスGP、ドイツGPでもトップに立ち、第14戦までに優勝5回の成績を残していた。

第15戦の鈴鹿ではそれまで優勝6回と総合成績で首位に立っていたアイルトン・セナがプロストに衝突して両者ともリタイア。わざとぶつけて自分の首位を守ったのではないかと騒がれた。

1990年というと日本人ドライバー中島悟や鈴木亜久里、アイルトン・セナ、アラン・プロスト等のレーシングドライバーが活躍していた時代で懐かしい。

シエナで行った菓子店ナンニーニの長男でF1レーシングドライバーのアレッサンドロ・ナンニーニ(姉さんは歌手のジャンナ・ナンニーニ)がヘリコプター事故にあったり、アラン・プロストのマクラーレン時代のチームメイト、アイルトンセナと因縁の対決など、話題にこと欠かないモータースポーツ華やかなりし頃だった。

そしていよいよモータースポーツ黄金の90年代を迎えるわけだが、マドンナ・ディ・カンピリオで探索隊に借りのあるシューマッハ君まで辿り着くには、フェラーリ博物館の展示はまだまだ延々と。

続報しばし待てということでこの項つづく。

(この項はフェラーリの公式サイトのイタリア語版を参照し独自に構成しました。)



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